第16回
新しいネットワークテクノロジーで、新たな感覚に挑戦していきたい。
松山猛さんは高校時代からの友人、加藤和彦さん、北山修さんたちが結成したザ・フォーク・クルセダーズのデビュー・シングル「帰って来たヨッパライ」の作詞を手がけ、これが約280万枚の大ヒットとなった。
その後、作詞家としてばかりではなく雑誌編集者として活躍し、特に雑誌『ポパイ』、『ブルータス』(ともにマガジンハウス)では男の道具や遊びへのこだわりを追求し、特にカメラ、時計に造詣が深い。
今回は、そんな松山さんが30年にわたり取材を続けているスイスのバーゼル・フェア(世界最大の宝飾品と時計の見本市)や、これまでの雑誌作りの変化、そして愛用のカメラ、新しいネットワークテクノロジーとのつき合い方などをお伺いした。
まつやま・たけし
1946年、京都市生まれ。
広告代理店にグラフィックデザイナーとして勤務。
67年に発売された「帰って来たヨッパライ」がミリオンセラーに。
作詞で代表的なものに「イムジン河」(日本語詞)、「タイムマシンにおねがい」などがある。
雑誌編集者、執筆者としても様々なメディアで活躍。
著書に『松山猛の時計王』(世界文化社)、『少年Mのイムジン河』(映画『パッチギ!』の原案など)。
横浜市中区在住。

機械式時計復活の陰にPCで描く設計図の存在があった。
松山さんは70年代後半、雑誌でアンティークの高級リストウオッチを紹介し、時代の先駆けとなった。 以来、30年間にわたりスイスのバーゼル・フェアの取材を続けるなど、特に機械式時計の道を究めている。 ここでは世界の時計職人たちの仕事ぶりと、高級時計業界の時代の変革をお伺いした。
「一つ何千万円という機械式時計を作る職人さんに、どんなコンピューターを使ってこんな凄い時計を作ったのかを取材したがことがあります。 そのときに差し出されたのが何と1台の電卓でした。 これは博士号をいくつも持っている天才的な頭脳の持ち主の特例ですが、現在、スイスの機械式時計職人たちの設計図は一般的には完全にコンピューターで描かれていますね。
僕は、クォーツ時計の正確さを認めないわけではありませんが、80年代はエレクトロニクス時計の正確さに賑わいだバーゼルでした。 でも、僕は人間がコツコツ作った機械式時計が産業として残って欲しいとバーゼルに行くたびに思っていたのです。
このことが動き出したのは80年代も後半、当時時計メーカーが機械式時計を復活させるために。 コンピューターのプログラマーたちを集め始め設計図を書かせていたのです。 機械式時計を愛するものにとって、これは20世紀のバーゼルのエポックですね。 それをいち早くおこなったところが先に進み、90年代に入るとこれは常識化されました。

時計を作ることと設計図を描くことは分業されることが多く、それぞれのパートで描かれたものを組み合わせてバーチャルのなかに立体的な動く時計ができあがります。 それでシミュレーションしてから部品などを試し、設計図を作っていきます。 コンピューターで文字盤の色を変えるとか、アラビア数字やローマ数字にしてみたり、針の大きさを変えたり、素材感もほぼリアルに仕上がっていきます。 この世界は、新しく生み出されたテクノロジーと伝統的な職人たちの鍛えられた技術がすでに合体していて、もう文化ですね。
雑誌作りの醍醐味は、時間と情報のジャグリング。
松山さんは1960年代後半から『平凡パンチ』(マガジンハウス)に携わり、『ポパイ』(76年~)、『ブルータス』(80年~)では創刊メンバーだ。 昨今ではアメリカンエキスプレス・プラチナカード会員誌『デパーチャーズ』の編集長も務め、雑誌編集者としての経験は30余年にわたる。 そんな松山さんに、雑誌作りとその時代の変化についてお伺いした。
「僕は、雑誌には新しいことを読者に早くお知らせすることと、みんなが忘れてしまったことを楽しく思い出させるという2つの役割があると考えています。 新しいことのおもしろさを吟味し、よりスピーディーに、また時間を経て熟成された味わい深いものもタイムリーに、時間と情報をジャグリングするようにこの両方を的確に操っていくのが、僕にとっては雑誌作りの醍醐味です。

僕が体験した70年代~80年代の雑誌作りは、あえて言うならば編集部がひとつの学校みたいなところでした。 年齢層の違うチームがひしめきあって、現場では賑やかな会話が飛び交っていました。 実はみんな作り手だけど、読者の代表でもあるわけです。
遊びのような企画でも真剣で、その共同作業にはパワーがありました。 だからか深いものができて、おもしろがられ方が持続したのかもしれませんね。 相乗効果もあってそんな編集部にはユニークな人間も集まってきて、そういう人間を見つけるのも編集者の仕事でした。
21世紀に入ってからは、雑誌作りの現場が顕著に変化しました。 かつて編集部に集まったスタッフは、今では自宅のパソコンの前で編集部にいるのと同じ状況になれます。 サーバーに編集部が立ち上がり、編集者もカメラマンもデザイナーもみんなネットワーク化され、そこにいろいろな資料や素材が送りこまれ、それが全部コンピューターで処理できる。 誰がどこに移動してもつながっているし、これは新しい時代の共同作業で、かつてに比べたらスマートで賢い編集の方法だと思います。 ただ、便利ゆえ、人となかなか会わなくなったことがデメリットかもしれません」
デジタルカメラに、愛用の古いレンズをつけて楽しむ。
松山さんは編集や文章を書くばかりではなく、『完本 路上の宝石』(青英舎)など写真集を発表するなど、カメラについても造詣が深い。 現在、お気に入りのデジタルカメラ、レンズなどのことをお伺いした。
「路上の宝石を撮ったのは83年だから、フィルムカメラでライカ、コンタックス、ライツ・ミノルタをよく使っていた頃です。 デジカメは、僕なりにまぁまぁ使えるようになったと実感したのが、画素数が400万ぐらいになった2000年に入ってからです。 海外へ取材で行ったときに、初めてキヤノンのデジカメで撮影し、このときは、即応性というか、画像を瞬時にして送れることが一般化したことが嬉しかったし、これで編集者はますます忙しくなると確信しました。 ずっとフィルムカメラも並行して使っていましたけど、ラボが横浜でも少なくなってしまい、これはデジタルのなかで可能性を探ったほうが賢明だと思ってこの頃に移行したのです。

ちょうど性能が600万画素になったあたりからペンタックス系を使い始め、カメラ本体をデジタルにしたけれど、レンズはコンバーターを使って昔愛用したものも使っています。 カメラ好きにとって、レンズは愛着があるし一本一本特徴がありますから、デジタルに変えても昔のレンズを使っています。 最近では、ライカの古いレンズをルミックスにとか、デジタルカメラに愛用のレンズをつけて楽しんでいます。
海外へ取材に行くときは、いずれかのデジタル一眼レフを1台と、交換レンズを1つ、それとライカのコンパクトのデジカメと、この2台ですね。 ノートパソコンも持っていくので、撮影したものは現地で取り込んで、編集を楽しんでいます」
時計職人たちを見習って、感性に委ねた写真や文章をこころがけたい。
松山さんは、海外への取材にはノートパソコン、デジカメを持参し、普段でもスカイプ(※1)を使い、新しいネットワークテクノロジーには前向きに対応しておられる。 これはどんなことがきっかけとなったのか、また、最近、興味をもたれていることは何かも併せてお伺いした。

「4年前にベトナムのホーチミンへ行ったとき、道端の露店で古い腕時計を見つけて、部品や刻印を見たんですがそれが本物かどうか迷いました。 忘れていることがいっぱいあって、そこでホテルに戻ってパソコンのインターネットでこの時計のムーブメントを調べました。
結局、なかの機械は相当にいいものだったけど、でもこれが巧妙に作られた偽物(笑)。 このとき買わずに済んだのは、まさしくインターネットの恩恵だと思っています。 これがきっかけとなって僕は新しいネットワークテクノロジーに興味を持つようになりました。
これまで雑誌編集という仕事をしてきて、機械式時計の図面がIT化され、同じくカメラがデジカメへ進化したように、ITは雑誌編集に大革命を起こしました。 しかし、僕がいちばん言いたいのは、コンピューターにできることは沢山できたけど、最後に人間の感性によって手を加えたものが魅力的だということです。
例えば機械式時計がバーチャルのなかの立体的な図面で作られていくにせよ、最後の仕上げは、これまで何百年と作り続けられてきた時計職人たちの微妙な感覚や感性に託されていると言っても過言ではありません。
雑誌もしかりだと思います。 僕が今とても興味あるのは、携帯電話につないで無線LANでパソコンを使うシステムで、これは圏外でなければ海外でも使えるそうで、僕らのような仕事をしている人間にはかなりライブでジャーナリスティックな便利ツールです。 僕はこの新しいネットワークテクノロジーで、新たな感覚に挑戦していきたいし今後も時間と情報をジャグリングしながら、スイスの時計職人たちを見習って、自分自身を鍛え感性に委ねた写真や文章をこころがけたいと思っています。
- ※1) スカイプとはルクセンブルクに籍を置く Skype Technologies 社が提供するインターネット電話サービス。中央サーバーを介さず、ユーザーのPC間での直接通話を実現し、Skypeユーザー間では無制限の無料音声通信が可能。

『少年Mのイムジン河』(木楽舎)
松山さんが10代の終わりの頃に「イムジン河」の詞を日本語訳し、ザ・フォーク・クルセダーズが歌うも詞の権利問題で発売自粛となる。 その後その問題は解消され、様々なシンガーが歌い、また松山さんプロデュースでCDの発売となった。
この小説は、松山さんが中学のときに体験した、同級生たちと朝鮮中級学校の生徒のサッカーの対校試合を通しての交流を描いたもの。 映画『パッチギ!』(井筒和幸監督)の原案。
2009年7月29日 掲載
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