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第30回

[後編]『広辞苑』とデジタル辞書 ~アナログ情報と愛着

株式会社岩波書店 編集局『広辞苑』編集部 課長 上野 真志 氏

写真: 株式会社岩波書店 編集局『広辞苑』編集部 課長 上野 真志 氏

株式会社岩波書店
編集局『広辞苑』編集部
課長 上野 真志 氏

パソコンや電子辞書、携帯電話といったデジタル機器が普及した現在では、紙の辞書を使わず、デジタル版を利用する人も増えています。また、インターネット上で利用できる無料の辞典の利用者も増えているようです。「『広辞苑』とデジタル辞書」後編となる今回は、紙やデジタルの辞書それぞれの違いや、使い分け方法などについて、前回に引き続き、株式会社岩波書店編集局『広辞苑』編集部課長の上野真志氏にお話を伺います。

アクセスパスが豊富なデジタル版

前編で少しお話ししましたが、最新版の『広辞苑第六版』は、書籍版だけでなく、DVD-ROMや電子辞書など、電子媒体でも提供しています。これら媒体による収録語数の違いはありませんが、それぞれの媒体によって特長が異なり、一口に「デジタル版」といってもさまざまです。

DVD-ROMや電子辞書などは、検索対象の項目にたどり着くまでの方法 (アクセスパス) が多いことがそのメリットにあげられます。たとえば紙の辞書では、項目は五十音順に並んでいて、読み方がわからない場合には、検索することができません。しかしたとえばパソコン用のDVD-ROMの場合には、直接漢字を入力して検索したり、解説文の中身から検索したりできますし、夏の季語となっている植物、18世紀のイギリスの物理学者といったキーワードでも検索することができます。

また、検索性に加え、デジタルコンテンツならではの特長もあります。たとえば、『広辞苑』の「鴇色 (ときいろ) 」という項目には、「鴇の羽のような色、すなわち淡紅色。」と書いてありますが、トキの羽の色がイメージできないと、どんな色かわかりづらいのです。 しかし「鴇色」の色見本が掲載されていれば一目瞭然です。ほかに、鳥の鳴き声や、クラシックや日本民謡などの音楽、祭りの動画などを再生できるのもデジタルコンテンツの特長だと思います。

写真:『広辞苑』DVD-ROM版の検索画面の例

紙メディアの優位性とは

このように説明すると、紙よりもデジタルのほうが優れていると思われるかもしれませんが、どちらに優劣があるというのではなく、紙は紙ならではの特長もあります。それは、なによりも一覧性にあると思います。たとえば、デジタル版の場合、ある言葉について調べた際に、その言葉がどれくらいの文字量を使って説明されているのかは、ページをスクロールさせたり、画面を切り替えたりしないと把握することができません。また、その用語から派生した用語 (追込項目) に関しても、どれくらいあるのかは瞬時にわからないのです。ほかにも、その用語の前後や上下にどんな用語があるのか気づくことができ、知識が増やせるメリットもあります。

写真:『広辞苑』書籍版とDVD-ROM版の一覧性比較

『広辞苑』では簡潔に解説することを心がけていますが、重要な語にはきちんと分量を割いています。たとえば、「回転寿司」という言葉からさらに新しい言葉が生まれることはありませんが、「右」「左」「来る」「無い」といった基本的な言葉は、そこからさまざまな意味・用法や言葉が生まれます。前者は2~3行で解説をしていますが、後者は何行にもわたって解説をしているのです。この行数の違いは、その言葉が日本語の中でどれだけの力を持っているかを示すとも言えます。その違いを感覚的に知ることができるのが紙メディアなのです。

また、国語辞典や英和辞典などで、一度引いた言葉に印を付けたり、コメントを書き込んだという経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。紙の辞書は使い込むにしたがって、自分専用の辞書へと変化していきます。紙の辞書を何度も引いていると、自分の癖が付き、次第に引きやすくなっていきます。同時に思い出も蓄積されていくため、辞書を捨てずにいる人も多いです。デジタル版の辞書にもチェックが付けられるものが出てきたようですが、紙のような愛着はなかなかわいてこないと思います。それが紙とデジタルの大きな違いでしょう。

最近頂戴した『広辞苑』の読者ハガキにこんなメッセージが寄せられていました。昭和40年頃、結婚を記念して『広辞苑』を買った方で、現在ではお子さんも独立し、ご夫婦にとって新しい節目を迎えたので、その記念に第六版をお買い求めになったそうです。このように、人生の節目に辞書を買うというのも、紙メディアならではと言えるのかもしれません。

辞書を引く相乗効果

では、紙とデジタルどちらの辞書を使えばよいのでしょうか。それは、何を目的としているか、自分にとってどちらが引きやすいかなどで使い分ければよいと思います。最近では、特に若い世代は、携帯性や検索性を重視して電子辞書を使う傾向が強いようですが、その一方で、小学校では“辞書引き学習”が行われているそうです。これは、小学生用の辞書を机の上に置いておき、知らない言葉だけではなく、知っている言葉も調べ、付箋を立てるという学習方法です。この学習により、自分で何かを調べる、自分で考える、という習慣が身につき、小学校の5年生頃になると、『広辞苑』クラスの辞書も引けるようになり、小学生向けの辞書にはない言葉を覚えるきっかけにもなっているようです。

デジタル版と紙の辞書のどちらを使ったら学習効率が高くなるのかはわかりませんが、この学習では、紙の辞書を使っています。デジタル辞書のメリットである「サーチ」機能よりも、紙の辞書のメリットである「ブラウズ」機能によって、他の用語にも興味が広がることを重要視したためだと思います。単純計算や手先を使うことが脳を活性化させるそうですが (注)、紙の辞書を引くときには、五十音順などを考える必要もありますので、そうした意味では、紙の辞書のほうが効果的なのかもしれません。

オープンソースと出版社の辞書の違い

最近では、デジタル辞典には、出版社が発行する辞書や辞典以外にも、Wikipediaのようにインターネット上で利用できるオープンソースの辞典も存在します。Wikipediaはどちらかというと百科事典であり、『広辞苑』のような国語辞典とはそもそも違うものですが、その差以外に、出版社が発行する辞書との違いがあります。

オープンソースな辞典の場合、多くの人間が集まって、一つの辞典を作っていきます。最終的にはよい内容のものができるでしょうが、それまでは、解説内容が玉石混交し、いつまでにどのくらいのレベルとボリュームのものが完成するのかという見通しが立ちません。その一方で、出版社が発行する辞典の場合は、執筆者にもある種の強制力を働かせ、特定の期間内に次の版を出すという目標を定めて制作し、内容に関する品質の保証も行います。また、先に述べたように、編集方針によって、掲載する用語を取捨選択したり、解説する言葉ごとに強弱をつけたりすることができるのも、出版社の辞書の特長と言えるでしょう。

出版社が発行する辞典には、紙のものと、デジタル版があります。ですが、デジタル辞書の場合は、新しい市の誕生や、冥王星が准惑星になったというようなときに、収録単語や解説文を逐次アップデートしやすいというのはメリットでしょう。『広辞苑』のデジタル版でも、差分を提供することは検討していますが、ユーザーの利用環境がばらばらであるという問題などもあり、まだ実現はしていません。

現在の『広辞苑第六版』では24万語を収録していますが、仮に将来、紙メディアがなくなって、デジタル版だけになったとしても、『広辞苑』としての編集方針に基づき、むやみに収録用語を増やすことはないでしょう。また、DVD-ROM版では音声や動画・カラー写真などを収録したり、携帯電話版では限られた画面サイズに表示できて通信環境を圧迫しないようにしたりと、さまざまな媒体の特長を生かして提供する工夫をしていますが、基本的にはワンソース・マルチユースという考えで編集を行っています。

提供する媒体が何であれ、『広辞苑』であることに変わりはありません。さまざまな媒体で辞書を活用する機会を増やして、日本語の深さや楽しさに気づき、充実した生活を送っていただきたいと思います。

編集後記

『広辞苑』は初版以来、半世紀にわたって改訂を重ね、その度に新しく生まれた言葉を収録してきました。現在では、DVD-ROMや携帯電話などの媒体でも提供されるようになりましたが、その根底には「『広辞苑』らしさ」を貫く確たる編集方針がありました。普段の生活やビジネスにおいても、“自分らしさ”を失わずに時代や環境と調和していくことの大切さを感じました。

(2008年6月11日掲載)

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